医者は難しそうな顔でこちらを見ていた。
僕もまた、できもしない分数の暗算でも舞台上でやらされているかのように、何とも言いがたい手持ち無沙汰の状態で医者のほうを見ていた。
さらに言えば、看護婦の視線は興味がなさそうな様子で手にもっている診断書と医者を交互に行き来していた。
症状は極めて簡単だった。
何かがおかしい。
それがわからないから、何がおかしいのかを医者に聞きにきたわけだ。
すると医者はどうしましたかと問う。
僕は中空の一点を見つめ、そこの空間にあるはずの真空から生まれては消えるエネルギーについて、ふと思いを馳せてから、青白い医者の顔を覗き込む。
そして吐き気を催していることを知った。
医者に行ったとき、いつも説明する言葉を知らない子供の気持ちを再確認する。
ある日、自分が正体不明の奇病に罹ったことを知った。アジア旅行から帰ってきたことが原因だとも思えなかった。僕がとりあえず医者に来たのは、不安のあまり、病気だ病気だと連呼する息子を見かねて、親が医者に行けと軽々しく言ったことが原因だった。今となっては、もともとどうであったかなどという話はどうでもいい。
病院に行くのは嫌いなほうだった。誰かと比較したわけではないが、十人人間がいれば、その中で三番にランクインするくらいに嫌いだった。それは、この手持ち無沙汰が耐え切れないからだった。
「何かがおかしいんですよ」
「体のどこかが痛むとか?」
「痛みはありません。いや、痛みめいたものはあります」
この痛みめいたものとは何か。
「どのあたりが?」
「いわば全身なのですが、どこかに特定しろと言われれば、特定されたどこかが常に痛みめいたものを抱えているように思えます」
「神経的なものでしょうか」
「そうかもしれません。僕には腕が見えているもの以外にもあと何本もあるんですよ。そしてその目に見えない腕すら痛むのです」
「幻肢……」
「今、確かに腕と言いましたが、それは腕ではなく、延長と言ったほうがいいですね。なぜなら足にもあり、頭にもあり、指にもあり、存在しない何かが痛み、訴えるように何かを叫んでいるからです」
眼鏡の奥の医者の瞳がせわしく瞬きをしてわずかに揺れた。
「今も耐えられないほどに痛いと?」
「先生、幻覚、幻聴だと思ってますよね。スキゾフレニアだと」
「痛み止めが必要かもしれません。痛みを感じているのは脳ですから。様子を見てみる必要はありますが」
これを誰かの痛みだと僕は思っていた。自分の体が人の痛みを受け付けるようになったのだと。
僕の思っていることは正しく、そして間違っていた。
三日後、僕は交差点に無茶に進入してきたタクシーに轢かれて死んだ。
しかし、死後の世界というのはそれほど代わり映えしないものだった。
相変わらずあの世には行けないし、見知ったこの世が活動拠点なのだから。
数日前の自分にとり憑いた自分が、全身に感じるべき痛みを感じないままで、どこか痛そうにしている自分を眺めるのは、そう面白い光景ではない。
ただ、僕はまだ別の痛みを感じていることに気づいた。
本当の体は、一体どれなのか。いや、体などどこにもなく、ただあるのは、幻肢にしか過ぎず、痛みも得体の知れないどこかからやってくるのかもしれない。
死んでなお、まだ何度でも未来から。
よくできた世の中だ。
僕もまた、できもしない分数の暗算でも舞台上でやらされているかのように、何とも言いがたい手持ち無沙汰の状態で医者のほうを見ていた。
さらに言えば、看護婦の視線は興味がなさそうな様子で手にもっている診断書と医者を交互に行き来していた。
症状は極めて簡単だった。
何かがおかしい。
それがわからないから、何がおかしいのかを医者に聞きにきたわけだ。
すると医者はどうしましたかと問う。
僕は中空の一点を見つめ、そこの空間にあるはずの真空から生まれては消えるエネルギーについて、ふと思いを馳せてから、青白い医者の顔を覗き込む。
そして吐き気を催していることを知った。
医者に行ったとき、いつも説明する言葉を知らない子供の気持ちを再確認する。
ある日、自分が正体不明の奇病に罹ったことを知った。アジア旅行から帰ってきたことが原因だとも思えなかった。僕がとりあえず医者に来たのは、不安のあまり、病気だ病気だと連呼する息子を見かねて、親が医者に行けと軽々しく言ったことが原因だった。今となっては、もともとどうであったかなどという話はどうでもいい。
病院に行くのは嫌いなほうだった。誰かと比較したわけではないが、十人人間がいれば、その中で三番にランクインするくらいに嫌いだった。それは、この手持ち無沙汰が耐え切れないからだった。
「何かがおかしいんですよ」
「体のどこかが痛むとか?」
「痛みはありません。いや、痛みめいたものはあります」
この痛みめいたものとは何か。
「どのあたりが?」
「いわば全身なのですが、どこかに特定しろと言われれば、特定されたどこかが常に痛みめいたものを抱えているように思えます」
「神経的なものでしょうか」
「そうかもしれません。僕には腕が見えているもの以外にもあと何本もあるんですよ。そしてその目に見えない腕すら痛むのです」
「幻肢……」
「今、確かに腕と言いましたが、それは腕ではなく、延長と言ったほうがいいですね。なぜなら足にもあり、頭にもあり、指にもあり、存在しない何かが痛み、訴えるように何かを叫んでいるからです」
眼鏡の奥の医者の瞳がせわしく瞬きをしてわずかに揺れた。
「今も耐えられないほどに痛いと?」
「先生、幻覚、幻聴だと思ってますよね。スキゾフレニアだと」
「痛み止めが必要かもしれません。痛みを感じているのは脳ですから。様子を見てみる必要はありますが」
これを誰かの痛みだと僕は思っていた。自分の体が人の痛みを受け付けるようになったのだと。
僕の思っていることは正しく、そして間違っていた。
三日後、僕は交差点に無茶に進入してきたタクシーに轢かれて死んだ。
しかし、死後の世界というのはそれほど代わり映えしないものだった。
相変わらずあの世には行けないし、見知ったこの世が活動拠点なのだから。
数日前の自分にとり憑いた自分が、全身に感じるべき痛みを感じないままで、どこか痛そうにしている自分を眺めるのは、そう面白い光景ではない。
ただ、僕はまだ別の痛みを感じていることに気づいた。
本当の体は、一体どれなのか。いや、体などどこにもなく、ただあるのは、幻肢にしか過ぎず、痛みも得体の知れないどこかからやってくるのかもしれない。
死んでなお、まだ何度でも未来から。
よくできた世の中だ。
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by reddragon_samael
| 2010-11-02 05:33
| 読切のたわ言